時刻は19時を回る。 少年は、常に時間を表示してくれるコンタクトレンズ型のモニタを瞳に入れているから、時刻の経過はよく解っていた。 半日なんて、終わってみれば、あっと言う間だ。 それが楽しい時間であれば尚更だし、終わって欲しくないと思えば思う程に、短くなっていく。 時間が来ればどうなるんだろう。 急に何らかの変化が訪れるのだろうか。 後の事なんてどうでもいいとは、思っていても。一人になる瞬間には、どうしても思い馳せてしまう。 「―――せーじ君!」 「うぉわ!?」 そんな誠司の頬に、ぴたりと、冷たい感覚が急に襲うと、びくん、と肩が跳ね、素っ頓狂な声が上がる。 というのも、単純に驚いたのもあるが、表面に付く露でうっかり変化してしまうかもという普段の逃げ癖の所為もあり。 悪戯の主を振り返りながらも、誠司は、内心では、ここまで忘れようとしていた「この後」の事が胸を占めていた。 それを打ち払ってくれたのは、やっぱり、何も知らないこの笑顔で。 「びっくりしてる、ふふー!」 びっくりもするよ。 何考えてたのか忘れてしまった。 「…ご、ごめんごめん、ボーッとしてて…!」 少年は、渡されたかき氷を手に、立ち上がる。 残りは三時間。 平原に広がる屋台の群れを、二人は並んで歩く。 「ところでリーチャってさ」 「はい?」 「甘いもの好き?やっぱり」 「えっ? はい!それはもちろんですよーっ」 「…そうだよねー」 かき氷にりんご飴にチョコバナナで三品目。 もしや女の子は皆甘い物大好き人と並び立つんでは無いかと思わされるが、自分が女子に変化しても別にそんな事は無い。 とは言え自分も嫌いでは無いので、普通に付き合ってはいるものの、そろそろ醤油っぽいものが食べたくなって来たりはする。 たこ焼き屋台の前で足を留めつつ、どうしようかなぁと、財布を覗き込んで考える一時。 何せ私服に続き、水着や浴衣など、見栄張って全て自分が出してきたので、かなり懐が寂しい。 ふむ、と、首を傾げていると、つられて足を止めたリーチャが「あ」と呟く。 「メイちゃんも甘いもの好きですか?」 ぼとっ。バラバラバラ! 小銭が地面に思いっきり散らばり、ぎこちない動きで誠司がその場にしゃがみ込む。 「せっ、せーじくん大丈夫ですか!?」 「だだっ、だ、大丈夫だよ、大丈夫……!ごめん、ごめん…!」 一緒になってしゃがみ込んだリーチャの横顔を見て、誠司の笑顔は若干引き攣っていた。 いやそんなん聞かれても、と、思わなくもないが、一応は自分の知り合いという事になっている。 困ったように頬を掻きつつ、財布に小銭を戻していると、隣の彼女は、集めた小銭を少年に差し出しながら、続け。 「ずっと行方が知れなかったけど、やっと戻って来たんですーっ。なので、お土産に何か甘い物をと思って!」 小銭を差し出された手を見つめながら、誠司は、瞳を丸くしている。 お土産? メイに? ついつい、ぽかんと口を開いて、彼女を見てしまいつつ。 「……ずっと行方が知れなかったってことは、その……大会とかも、ずっと居なかったんでしょ?……お、怒ってないの?」 「えっ?」 リーチャは、少しだけ、考え込むと。 にこりと口元を緩ませて、小さく、首を左右にふり、少年を見つめる。 「だって、事情があったみたいですしー……それに、仲間ですからっ。ちゃんと戻ってきてくれたんです、何も怒ることなんてありませんよっ」 「……リーチャ…」 「せーじくんも、良かったですねっ!色々と相談に乗ってもらってたんでしょう?」 「……ぇ、あ……うん」 そう言うと、誠司は、小銭を差し出す手を取り。 取り。 ――そのまま、その手を、軽く握る。 「……えっと、あのー…?」 「ごめん、ちょっと………このまま。  ……このまま、繋いでてもいい?」 彼女にとっては、友人の事でしか無いだろう。そして、誰もがそんな風に言ってくれるのかもしれない。 でも、それでも、嬉しい。 それと同時に、罪悪感も同じように湧き上がって来る。 『あの子を騙すようなことは 許さない』 とある人から、言われた言葉だ。 今ここで、全てを話して、相談して――――― そんな事が、出来る訳が無かった。 きっとこの子は、まるで自分の事のように心配して、気遣って、そして。 「それでもいいから仲良くしよう」っていうような事を言ってくれる。 そんな相手だからこそ、巻き込めない。 残る時間は、二時間を切っている。そろそろ、覚悟を決めて、距離を置かなくてはいけないのに。 誠司の中に、この日初めて、抗い難い欲求が盛り上がって来ていた。 「えっ? …え、ええとー……はいっ、大丈夫ですけど…!」 「……そ、そう? ―――じゃあ、えっと……た、たこ焼き買ったらちょっと歩こうか…!」 手を繋いで、喧騒に湧く屋台通りを歩いていく。 夜風がぬるいこの時期でも、少し火照った頬には、涼しく感じる。 時々、エコーのように隣からの声が聞こえて来る。 誠司は、耳に届く色々に、一回一回、何度も頷いては、おざなりの答えを返す。 なんだか、まともに話せない。 握った手が、次第に熱くなっていく。 「男の子の手って」 「―――ん?」 屋台の喧騒を抜け、森の手前。 ふと、掛けられた声に足を止める。 隣を見ると、繋ぎ合った手を見つめて、何か呟いているの姿が、見えて。 少年は首を傾げて、同じように、手を見下ろす。 「男の子の手って、大きいですよねー…!」 「………」 そう言って、握った手を持ち上げ。 「ほら、こんなに違う」と、見せて来る。 ―――その手を見つめながら、誠司の表情が、少しずつ翳っていく。 そして、その後には、小さく口元に浮かぶ笑み。 静かな、沈黙の一時。 「…ご、ごめんなさい!ひょっとして気にしてました?」 そう告げて来る声に、何だか泣きそうな気持ちをぐっと抑えて、首を横に振る、誠司。 履き慣れない雪駄が、小石を踏んで、がりりと、音を立て。 「……違うよ、そんな事じゃないんだ。ごめん、ちょっと、思い出しちゃって」 「えっ、何をですかっ?」 じ、っと顔を向け。やや潤みかけた瞳が細まっていく。 口を開けば、シンプルな言葉で気持ちを伝えたくなるのを、必死で堪えながら。 再び、森の周囲を散歩がてらに、歩き出し。 少し離れた場所では、親子連れが、手を繋いで歩いていく。 それを横目に、進みながら、言葉をかわす。 「最初に会った時に、男の子とこんなにお話した事は無いって、言ってたんだ。覚えてる?  今みたいに、リーチャが手を握って、俺が大慌てして」 「うん、覚えてますよ!おかゆを作りに来てくれましたよね。  あの時は驚かせてごめんなさい!」 「うん、そうそう!  …あの時はさ、俺、緊張しちゃってさ。何かもう、何話していいのか解らなくて。  初対面なんていつも、女に間違われる事は多いし、ドモりまくって何だこいつって目で見られる事も多いから…」 瞳を僅かに伏せ、笑う。 あんなに慌ててたのに、何時から。 こんなにも、自然に一緒に居られるようになったんだろう。 何時から、自分はこんなに救われていたんだろう。 「……まさかそんな、普通に接してもらえると思わなかったんだ。今でこそ、割と皆そうなんだって、気付いたけど」 「ふふ、どうして緊張してるのか解らなかったです!おかゆ置いて帰ろうとするから慌てちゃいました…!  でも、そのあとは色々お話ししてくれましたよね。夢のこととかおばーちゃんのこととか!  せーじくんとのお話楽しかったですよ?」 そうだ、色んな事を話した。 その時も、ずっと、こんな顔で。笑ったまま。 しかし、それよりも、何よりも前に。 「うん、それで―――  追っかけてきてくれたんだ。  もうさ、考えれば考えるほど、変だよ。  別にちょっとした事でさ、ほんのちょっと約束しただけのやつが、急にお粥もって現れたのに。置いて帰ろうとまでしてるのに。  追っかけてきて、一緒に食べようってさ。」 少年は、ずっと気になっていた。 どうしてそこまでしてくれたんだろう、どんな打算だろうって。 それが打算で無いと気付く頃には、彼女と会えなくなっていた。 会えない間に、考える事は沢山あったけれど。 それを考えれば考える程に、反動として胸の内に湧き上がる衝動も多くあったのだ。 身近に居ないからこそ、何も知らないからこそ。 何も知らなくても、気にせずに変わらずに、いつでも同じ笑顔を見せてくれるからこそ。 ――なんて事だろう。一番、一番そう思ってはいけない相手なのに。 「でも、嬉しかったんだ。調子に乗って色々話しちゃうくらい。  長い話だったのに、ずっと聞いててくれたんだ。……嬉しかったんだ。」 しかし止まらない。 時間は、一時間と少し。 (もう会えないかもしれない?これが最後?) この場面でそう思ったら、もう止まらない。 「変、かなぁ…  一緒に食べたほうが楽しいでしょう?  それに作ってくれたかたには、美味しかったですよーって言いたいじゃないですかっ」 「………」 「あと… わたしの話もたくさん聞いてくれたじゃないですか。  あの時途中だったお話の続き、今度しましょうね!」 ―――リーチャの声に、誠司の足が止まる。 と、同時に、遠くでは、花火が上がり。 打ち上がっては、ふっと消えていく、夜の花。 それを見上げた彼女の横顔を見つめながら、誠司は、俯く。 鼓動が早まり。 熱が篭っていく。 「あの時の、話の続き ―――    ……ねえ、リーチャ。  ……リーチャの夢は、誰かの家族になる事なんだよね?  …それって、どういう意味?」 「え!?それは、あの…」 問われたリーチャの横顔が、黄と赤の混ざる大輪に照らし出される。 僅かに、赤らんだ頬。 やや、泳ぐ瞳と、戸惑ったような一瞬の間の後で。 彼女が、自分の頬を押さえながら、零す。 「わたし、物心ついた頃にはお父さんもお母さんもいなかったから…    …わ、笑わないで下さいね?  誰かのお嫁さんになって、お母さんになれたらいいなって」 誠司の顔が、驚きに歪む。 いや、それは、予想していたからこそ、そうなったのかもしれない。 幸せになって欲しい。夢を叶えて欲しい、でも。 ―――自分以外が、それを叶える姿は、想像するだけでも、耐えられない。 「…………っ…!」 その瞬間は、時間が止まったみたいだった。 事実、息をしていたのかどうかも良く解らない。 一秒か、それとも、もっと長い時間だったのか。 誠司の手から、買い物袋と、私服を納めた手提げ鞄が落ち。 再び、大きな花火が夜空に打ち上がる、その光に照らされて。 リーチャの肩から背の裏へと、誠司の両腕がまわり、強く抱きとめた姿が映し出される。 「――― っ、俺……… 俺が、叶えたいって、そう言ったらリーチャは…」 「っ、せーじ君……!?」 ついに、『それ』を口にしてしまいそうになった、その直後の事。 突然に抱き締められた事への驚きから、リーチャは咄嗟に、誠司の胸を押していた。 離れる距離。 途切れた言葉。 二人の間に、僅かな沈黙の時間が流れる。 いや、沈黙だったと呼べる程長い時間では無かったに違いない。 誠司にとっても、リーチャにとっても、そう感じる、一瞬。 二人が我に帰るタイミングは、ほぼ、時を同じくして。 「……あ、っ」 「――――  ……、 ごめんっ……、ごめん、俺……っ!」 何かを言いかけたリーチャの言葉を聞かない内に、顔色を蒼白に歪めた誠司は、森の奥へと、走りだしていた。 「……っ、はっ…… はっ…!」 ――走る。 夜の木々の隙間を、走る。 変身をしていなくとも、レティナ・モニタはクリアな視界で、誠司の強行軍を助けてくれる。 だが、何処へ行こうと言うのだろう。 いや、何処でも良かった。 ここまでは、彼女は追って来る事は出来ない。そう信じられる場所まで、行ければよかった。 どれだけの時間、走り続けただろうか。 雪駄の鼻緒は切れ、とっくに裸足だ。 枝に引っ掛けた甚平はそこかしこ破れているし、買った私服なんかを忘れてきたことも、今になって思い出す。 疲れきった身体は動かない。 沢の近くに鎮座する大きな岩の上で、誠司は、木々の隙間から星を見上げていた。 「…………時間に、なっちゃったな」 瞳の端に表示されていた残り時間が、ゼロを示し、赤くなっている。 もう、あそこには、戻れない。 「……服は…今度でいっか」 ルークに何と言い張ったんだ、自分は。 ぼんやりと、自分を苛める、静かな時間が流れていく。だが、それも、もう如何でも良い事。 「帰ろう……」 身を起こす。 起こすと、何かがちくりとしたのに気付き、足を見つめた。 「虫でも刺した…?」 ――虫どころではない。そこには、折れた枝が、刺さっていた。 『痛覚や、味覚が―――…』 来る前に聞いたユーリの言葉を思い出す。 そうか、もう。 がりっ、と、近くの岩に拳がぶつける。 じわりとした痛みがあるものの、悶えるようなものではない。それが、余計に、苦しい。 「………親父………ッ…!  ――― あいつの、あいつの所為でこんな…」 ――― そう 「……!?」 ――― 苦しいでしょ。憎いでしょう? ……思い知らせてやらなくちゃいけないわ、あの男に。 「…………」 ――― 私が力を貸してあげる。だからね、二人で…… 「違う――― ッ!」 頭を抑えて、誠司がうずくまる。 内なる声に、戦慄がよぎり。 「………違うんだ。そんな事がしたい訳じゃないよ…、俺は……… 俺はただ……」 ――― あの男さえ消してしまえば。 そんな考えが浮かび上がった自分のおぞましさに、身体が震える。 「……皆の所に、戻らなくちゃ」 帰ろう。 あの気楽な仲間達の所へ戻れば、きっと、もう何も考えなくて済む。 色んな事を、きっと忘れられる。 父の事。身体の事。これからの事。 抑えきれないくらいに、彼女をこんなにも ―――― 好きな事も。